【海蔵寺について】
海蔵寺は、鎌倉の臨済宗建長寺派の寺院です。
花と水の寺と言われ、小さなお寺ですが、いつ訪れても何らかの花が出迎えてくれるステキなお寺です。
よく手入れされた境内にご住職のお心を感じます。
ホタルも生息する鎌倉の小さな川「扇川」の源泉となる綺麗な水が湧く地でもあります。
鎌倉駅から遠いため混み合っていないので静かな時を過ごすことができます。
ゆっくりと花を見ながらのんびり過ごすのも良いものです。
無料の広い駐車場があるので、車やバイクで何度も通いました。
大規模寺院にはないもう一つの鎌倉を味わうことができます。
観光の人は駅から若干遠いことを逆手に取って、人力車で鎌倉の町を見ながら向かうという方法もあります。
駅からの道の途中には寿福寺、英勝寺などのお寺があります。
それらのお寺を回りながら徒歩で海蔵寺に向かう人もいます。
本尊:薬師如来
鎌倉三十三観音 第26番
鎌倉二十四地蔵 第15番
鎌倉十三仏霊場 第7番(薬師如来)
東国花の寺百ヶ寺 鎌倉7番
【沿革・歴史】
鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命により1253年(建長5年)藤原仲能が創建しましたが、新田義貞の鎌倉攻めで鎌倉幕府滅亡時に消失、1394年(応永元年)第二代鎌倉公方・足利氏満の命により上杉氏定の開基、源翁禅師(心昭空外)を開山として再興されました。
かつては大寺院でしたが現在は規模は小さくなっています。
「開山・源翁禅師(心昭空外)」
開山の源翁禅師は、今も大工や石工などの職人が使う「げんのう(玄能・玄翁)」という金づちの語源になった人として知られています。
伝承によれば、源翁禅師が殺生石を退治したのは1385年(至徳2年)8月、57歳の時のことです。
この功績により翌年、後小松天皇より「勅特賜 能照法王禅師源翁心昭大和尚」の号と「大寂院の勅額」が贈られました。
このことから何らかの歴史的事実があったものと考えられますが、伝説は物語的です。
伝説は室町時代頃に『御伽草子』の一編「玉藻の草子」として書かれ、源翁禅師の話もいつしか追加され、脚色されて能・人形浄瑠璃・歌舞伎などで演じられ今に伝わっています。
伝説は概ねこのようなものです。
鳥羽上皇の寵愛を受けた伝説上の女性「玉藻前(たまものまえ)」は、若く美しく、教典をよどみなく諳んじることができるほど博識で、賢い女性でした。
玉藻前は、鳥羽上皇の寵愛を受け後の近衛天皇を生んだ美福門院(1117-1160)をモデルとする説もあり、崇徳天皇派との対立で保元の乱が起こり朝廷の力が弱まり武士の世になったことから、当時悪役としてイメージされていたのかもしれません。
ある秋の夜、簫歌殿(しょうかでん)にて催された詩歌管弦の会の最中、強い風に煽られて灯りが消え暗闇になった時、鳥羽上皇の側にいたその時は化生前(けしょうのまえ)と呼ばれていた玉藻前の身体が青白く光り周りを照らしました。
会の参加者は驚き中には怪しむ人もいましたが、上皇はその光は後光のようで菩薩の化身に違いないと考え、これにより玉藻前と呼ばれるようになりました。
鳥羽上皇は畏怖の念を持ちながらも玉藻前を愛し暮らしていましたが、その後上皇は病に伏せるようになりました。
朝廷の医師は、邪気が原因なので医療では治せないと見立て、陰陽師・安倍泰成の進言で奈良興福寺と比叡山延暦寺の高僧が17日間祈祷しましたが効果は得られず病状は重くなっていきました。
玉藻前は万が一の時はどこまでもお供しますと涙ながらに上皇に伝え、上皇も玉藻前が側にいる時は容態が良くなるようでした。
その後も様々な祈祷を続けますが全く効果はなく、上皇の臣下が安倍泰成を問い詰めたところ、玉藻前が原因なので追放すれば平癒すると答えました。
それまで誰もそのように考える人はいませんでしたが、安倍泰成は玉藻前のことを中国でいくつもの国を滅ぼした妖狐の化身で、仏法を滅ぼし、上皇の命を奪い朝廷を我が物にしようとしていると説明しました。
上皇は信じませんでしたが、泰成は泰山府君の祭事で嫌がる玉藻前を御幣取りの役で壇上に引き出したところ玉藻前の姿が消え、九尾の狐が宮中を逃げ出しました。
この出来事の後、上皇の病は治ったとされています。
その後、那須野(現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子がさらわれるなどの事件があり、那須野領主須藤権守貞信の要請に応え朝廷は討伐軍を編成、三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常を将軍に、陰陽師・安部泰成を軍師に任命し、軍勢を那須野へと派遣しました。
追討軍は妖術を操る狐に歯が立たず、犬を狐に見立てて追い詰める「犬追物」の訓練の後、再び那須野へと赴きました。
7日間の激しい戦いの後、三浦介の夢の中に若い美女が現れ涙を流して命乞いをしましたが、三浦介は妖狐が弱っていると見て激しく攻め立て討ち取りました。
しかし討ち取られた九尾の狐は石に姿を変え、発する毒で近づく人間や動物の命を奪うようになり村人たちを恐れさせ「殺生石」と呼ばれるようになりました。
約200年経った1385年(至徳2年)、那須野に立ち寄った源翁禅師が持っていた杖で石を砕き割り災いを封じました。
砕けて各地に飛び散った石の伝承地もいくつかあります。
この時、源翁禅師の持っていた杖が金づちのような形をしていたので、金づちを別名げんのうと呼ぶようになったと言われています。
源翁禅師の法力で村は平和になり、九尾の狐の魂も救われたのかもしれません。
玉藻前は狐の化身だったのかもしれませんが、なんだか少しかわいそうな気もしますね。
現代になり、源翁禅師のおかげでしょうか、改心した九尾の狐は”ゆるキャラ”「きゅーびー」となって、那須町観光大使として町のPRに貢献、活躍しています。
めでたしめでたし。。
【見どころ・撮影ポイント】
「山門」
江戸時代の部材が多く使われていますが、1468年(応仁2年)の墨書がある台輪(柱上に渡す水平材)もあります。
9月には石段を覆うほどの萩が見事です。
「本堂」
十一面観音像、開山の源翁禅師(心昭空外)坐像が安置されています。
「薬師堂」
本尊薬師如来坐像が安置されています。
正面仏壇に本尊薬師如来坐像、両脇に日光菩薩像と月光菩薩像、十二神将像、堂内右側には伽藍神像、左側には位牌を安置しています。
本尊薬師如来坐像の胎内には、源翁禅師が赤子の泣き声を頼りに裏山の土中から掘り出した仏面を納めていて、その伝説から啼薬師(なきやくし)、児護薬師(こもりやくし)とも呼ばれます。
堂は1777年(安永6年)または翌年に鎌倉の浄智寺から移築されたと伝えられます。
「庫裏」
1785年江戸時代に建立された茅葺二階建ての建物です。
前にある海棠(カイドウ)が有名です。
「鐘楼」
「底脱の井(そこぬけのい)」
鎌倉十井(じっせい)の一とされています。
寺の入口にあり、シャガの花の季節にはたくさんの花が見られます。
「十六の井」
薬師堂裏手の岩窟内から水が湧き出し、観音菩薩像と弘法大師像が安置されています。
ここだけ有料(100円)です。
「花」
梅 2月
海棠(カイドウ) 4月
シャガ 4~5月
萩 9月
リンドウ 10月下旬~11月
【アクセス】
JR横須賀線「鎌倉駅」西口から徒歩25分
駐車場 20台無料
【時間・拝観料】
9:30~16:00
無料(十六の井のみ100円)
【所在地・お問い合わせ】
〒248-0000 神奈川県鎌倉市扇ガ谷4丁目18-8
0467-22-3175